1.27.2016



    NISHIYA

  

  母型の祖父が亡くなりお葬式に行けなかったので線香をあげにいった。午前中江東試験場にいって免許更新もした。タイミング悪く都内も雪で交通機関が乱れていた。 西谷に降り立つのは10年ぶりくらいだろうか。中学高校はその祖父の家に一緒に住んでいた。懐かしい上菅田中学校への登校路もたどってみようと思っていた。 きれいになってる相鉄線で西谷についてもしやいるかもと思い、たかつかの靴屋のおじさんの店に入ってみた。叔母の同級生のおじさんで、雪かきの手を休めて顔を出してくれた。高校の時にそこでRED WINGのブーツを買ってずっと履いていた。おじさんは奇跡的におれを覚えてくれていて、近況や家族のことなどはなした。     それから西谷のいまは自分が住んでいた家は壊して隣のおばの家が改装されているところにお邪魔して祖父の慰霊に線香をたむけた。炬燵でお茶をごちそうになりながら祖父の話など聞いていた。耳に切れ目が入った猫も傍らにうずくまっていた。
おじいちゃんの名前すらちゃんと知らなかったが、か典(カキチ)という名前で100歳だったみたい。デビット・ボウイと同じ時期に他界した。銀座で宝石商などもしていて住所も駒場や大崎など転々としたらしい。意外に肉塊労働を長くやっていたみたいだった。戦時中は翻訳のような仕事もしていたらしい。自分がすんでいたころには全く気にしていなかった椿が窓の外に並んで植えてあって、聞くと祖母が出先で買って帰ってきては植えていたらしい。あまり大きくならないようにこまめに上の枝をつめてるみたいだ。そのさえこ叔母に野菜のことなども教わる。カマキリはアブラムシなども捕食してくれるありがたい虫で、叔母はカマキリの卵が木になっているのをみつけると鳥に食べられてしまわないようにカバーをかけてまわっているらしい。自分も植物などに興味があり、従兄も森林関係の仕事をしているのはこういう家系が影響しているのかもしれなかった。
それから上菅田中学校まで寒い中歩いてみて、同級生の家のかわらずそこにある表札をいくつも通り過ぎて感慨深かった。それからパン生活という店ができていてそこでパンを買いがてらトイレを借りて、そこの前のバス停から横浜駅西口まで行き、妹が仕事から戻るのを少し待って一緒にバスで沢渡の実家に向かった。留学中の従妹とその叔母もきてくれて母の餃子と煮物をたらふく食べて、ばかばなしをききながらひさびさに家族でくつろいだ。














































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































1.04.2016