3.29.2017























  



































    HITACHI













































































































































































































    3月7日に日立のおじいちゃんが亡くなってしまい、葬式に行けなかったので線香をあげに朝早く起きて5年ぶりくらいで日立に向かった。通勤の時間帯で多い人の中を上野まで行き、上野から勝田行の常磐線に乗った。長く付き合った人が就職で荒川沖に住んでいたので、そこから先に行くのは自分がいまの仕事をはじめるまえの時以来だ。土浦から水戸とかすぐだろうと思っていたら意外に遠かった。
枯れ野原の畦道や、藪だらけのベージュに覆われた線路沿いの雑木林の間に牛が見えたりした。川沿いでおじさんが一人車の脇で釣りをしていた。そういうところを走りたいなと思った。斜めに座りずっと景色をながめていた。さいごすこしNeil Youngを聴いた。
 日立はおしゃれな駅になっているので海がきれいに見渡せた。自分にとって情緒ある道をたどって坂を下ると、橋のたもとで鎌を持った赤髪の短髪のおじさんとおばあさんが話していた。「あれもしかしておばあちゃんかもな」と確認のため近づくと赤い髪の祖母だった。「あれー、だれか向こうさ歩いていくなと思ったけんど、たくみぃ」と茨城のイントネーションで。「ここにいれば来るかなーと思って」
一緒にいたおばあさんと3人で少し歩き、家の前で別れる。地域の人はみな顔見知りみたいだった。様々な緑に囲まれたおんぼろな平屋に入りおじいちゃんに線香をあげた。ジメジメしていてもしょうがないしそんな性質でもないので、談笑していた。いくらもないおじいちゃんの遺産を放棄しますという書面に記入し印鑑を押した。おばあちゃんもいろいろと役所の手続きが大変らしい。おじいちゃんが持っていた鳥や野草の本まですべて捨ててしまっていたのはすこし残念だった。汚い家なので落ち着かないから駅のほうで外食するつもりだった。連れだって歩きだし、さっきの橋のたもとの栗田さんの家にもよった。ももちゃんという可愛い柴犬がいてうれしそうに跳ね回っていた。栗田さんは脚が悪いので散歩に連れて行けないので、テラスの中を放し飼いにしていた。久々に挨拶してから海沿いを通ってさびれかかった駅前のイトーヨーカドーの上で中華を一緒に食べてごちそうした。おばあちゃんはおしゃべりだしおじいちゃんは無口で気難しい人だったのでせきを切ったように絶え間なくしゃべりつづけていた。中学の時、陸上をやっていた話や仙台で自分の店をすこしの間ひらいていたこと。おじいちゃんはタクシーの運転手をしていたんだけど、お昼や夜は家に寄って食事していたこと、優しさを孫いがいには決して見せない人だったことなどいろいろ聞いていた。おじいちゃんも晩年はすこしぼけてしまって家に引き籠っていたので、ようやく自由な時間ができるじゃんというのがみんなの意見で、おばあちゃんにもぜひそうしてほしかった。おばあちゃんも時間ができたからまた仲間と山にいったり太極拳をならったりするといい。それとNHKのファミリーヒストリーの番組のように生い立ちやルーツを興味あるから書いといてよと言っておいた。
「なんかほしいものあるの?リュック?じゃあ東京きたときにいいのを買ってあげるよ」  
その後、歩いてお墓まで行ってみようということになり、一度家に戻る途中で、ももちゃんがこっちを見てしっぽを振っている隣で栗田さんが「寄って―」というのでいったら、焼きたての手作りの蒸しパンと小遣いをくれた。もう30過ぎてるおっさんだけどね。いつも履いている歩きやすいシューズに履き替えてもらって神峰公園の上にある霊園をふたりでめざした。おばあちゃんはもう82歳なんだけど、毎朝3時には起きて布団の中でストレッチをはじめ、4時前には歩き出してるような人なので、普段走ってる自分も舌を巻くようなスピードでずんずんと歩いていく。写真もさっさと撮ってついていく。この10年以内に「日立のスーパーばばあ」としてTVの取材をうけることになるだろうなと思える。途中のマンションにさしかかるとそこの上に住んでるおばあさんが知り合いで、毎朝通りかかると上から通るのを待って見ているそうだ。懐かしい神峰公園のジェットコースターなどを横目にゴミの焼却場を過ぎて霊園のほうまで進んでいく。菜の花の黄色が春らしくてすがすがしかった。おばあちゃんがトレーニングで逆向きに歩いていることや、猪にそこで出くわすこと。あるとき早朝の徘徊老人と間違われてしばらくパトカーに尾行された話などしてくれた。「あのしだが枯れたようなのがを目印にしてぜんまいを採るんだ」とか「この街路樹は桂で、葉がハート型をしていてつぶすと醤油の匂いがする」などいろいろと教えてくれた。「素朴な野草が好きだわ」と言っていた。
このあいだ、母やいとこたち親戚が集まった霊園に着き、線香の束を横向きに手向けた。墓標?に父の名前も入れることなど話していた。眼下には遠く海が見渡せて、山に囲まれたとてもいいところだった。葬式には母の兄弟も何人か横浜から車を出してくれて参列し、母の親しい友人たち、自分にとっての幼馴染の親たちも客観的にはまるで他人なのに香典を母に託してくれたらしい。そういう話を聞くと、自分をとりかこむ人々の温かいつながりや心の優しさに胸を打たれる気がした。

さすがの自分も片道約4kmの山の道路を歩くのは少し疲れたので帰りはバスにしたかったけど、霊園から3時台に出てるバスはなかった。やむなく復路についた。この道のりを毎朝軽々日課として歩ききるおばあちゃんはやはり超人的だ。途中おばあちゃんは茎の紫色の菜の花を何本か積んで味噌汁の具にすると言っていた。ほんとにこの人は米と味噌だけ買えばあとはなんとでもなりそうだ。自分もそうなりたいもんだ。神峰公園の下の神峰神社で「結婚できますように。おばあちゃん毎日ここで拝んでるなら、俺にいい人見つかるようにお願いね」「わかった」   恋みくじをひいてみたら「大吉」だった。ここ何年かおみくじにはかならずいいことが書いてあるけどそれほど実感がない。ご利益お願いします。     結局そこでバスに乗るくらいならもう一息歩いちゃうかということになり、ゴールの日立駅まで二人で歩き続けた。途中、仲良く連れだって歩いている老夫婦をみかけると、「ああやって歩いてるの見ると、いいなぁと思うよ」と話していた。おばあちゃんは一度もそういうふうにおじいちゃんと歩いたことがなかったから。おばあちゃんが風邪で寝込んでる時も、水の一杯も飲ませてくれず、自分でなにもやらないから泣く泣く毛布を被ったままご飯を作って差し出したらしいのには笑えた。意固地に硬派で不器用なところがあったおじちゃんだと思う。
「でも、こんちくしょうと思ってたのが逆に張りになっておばあちゃんは元気で来られたのかもね」と言っていた。「おじいちゃんの足腰が立たなくなったら一度でいいから文句の一つでも言ってやろうと思ってたんだけど」
それでも俺たち孫は最高に可愛がってもらったし、こんな家族も出来たんだから結果いいのかなぁ。なにがよくて悪いのかよくわからないなと思えた。自分も最近、冗談の通じない人に冗談を言って、本当に怒らせてしまったり。でもうちら佐藤家・加地家の血筋はもっと頭が柔らかくて温かい一族なんだよなぁと実感した。両方女の血筋だ。その血筋を絶やしてはならない。

日立駅に着くと電車はまださきだった。来年の「ひたちさくらマラソン」に来るよと約束した。それで毎年会いに来ればいいと思った。おばあちゃんと別れて待合所でおにぎりとあったかいゆずの飲み物を飲んだ。電車が動き出すころにはあたりはだいぶ暗くなっていた。たぶん返事くれないだろうなと思ってたひとからtwitterに返事が来ていた。   家に帰ってシャワーを浴びて、くつろいでいるとおばあちゃんから電話があった。「たくみぃ、あんた1万円テーブルに隠して置いて行った?」  最近スマホにしてこれからも電話で話すのはおばあちゃんくらいだろう。次の日、おばあちゃんから渡された手紙を開いたらなかに数万もはいっていた。。 ほんとに物欲のない一族で、小粋なことがすきな優しい家族だ。



















































































































































































































































































































































































































3.24.2017